ここでは、「トレジャーハンター」の舞台となる開催場所をご紹介致します。
月瀬八幡宮(猫城址)
詳細
【鎮座地】〒809-0003 福岡県中間市大字上底井野1696-1 旧筑前国 遠賀郡
【社格】旧村社
【電話番号】093-244-1824
【御祭神】
・品陀和氣命(応神天皇)
–品陀和氣命は、応神天皇(第十五代天皇)の諱。仲哀天皇(父)と神功皇后(母)の間に生まれた第四皇子である。
・比咩大神
-神社の祭神を示すときに、主祭神と並んで比売神(比売大神)、比咩神、姫大神などと書かれる。これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものである。
・息長足媛命
–息長足媛命は、神功皇后の諱。
仲哀天皇(夫・第十四代天皇)崩御から応神天皇の即位まで摂政として約七十年間君臨したとされる。
(合祀)
・菅原道真うだいじんにまでなった偉人。しかし藤原時平(左大臣)に陥され、左遷先の大宰府で没する。死後は天満天神として信仰の対象となり、現在は学問の神として親しまれている。
御由緒
御由緒、社伝にいわく、寛永15年(1638年)8月、時の筑前藩主黒田忠之公、この地に別業(御茶屋)を営むに際し、まづ守護神をまつらんとして、大宮司佐野清麻大夫正安に命じ、猫城跡(現在の社地)に社殿を造営し、宇佐八幡宮を勧請鎮祭す。これ当社の始まりなり。
御社号は初め猫城八幡宮と称せしも、後に宇佐八幡宮境内を流れる月瀬川にちなみ月瀬神社、その後月瀬八幡宮と称す。
正保4年藩主は神鏡一面を寄進し、続いて宝永元年(10月)黒田光之公、本殿を改築、同2年拝殿を建立す。
宝暦2年藩主は御供料(御供物料)として米7俵宛永代御寄進の制を定めらる。
代々の藩主の崇敬厚く、社参において40回余り、代参は50回に及べり、藩公創祭の神社とて庶民の信仰も厚く、種々の寄進物等あり、文政3年より郡役所より米俵1俵、掃除夫1名を永代遣わす事となれり。
終戦後、梅園山に鎮座の天満宮を遷座し、合わせまつっている。
(平成祭データ)
この月瀬八幡宮は、中間市を流れる遠賀川の西側、上底井野地区の小高い丘にある「猫城」の城址に鎮座しています。階段の角度がとても急な神社です。月瀬八幡宮の神主は、佐野正靖氏。
戦場となった場所
麻生氏と宗像氏の数度の合戦の場となりましたが決着がつかず、中間市の市域は両氏によって分割統治されることになりました。このため、天正6年(1578)に猫城は宗像氏の出城となりました。猫城からのろしを上げれば、遠賀、鞍手、宗像一円に合図ができ、敵が攻めれば高くなり、城から攻め出れば低くなるとの言い伝えもあります。天正8年(1580)、鷹取城主・毛利鎮実率いる1000人の軍勢との合戦が有名です。
なぜ、猫城址と呼ばれるのか?
遠くからこの山を見ると、高さが約20mなんですが、猫がしゃがんでいるような形をしているところから、その名前がついたと言われています。(※諸説あるようです)
猫城址と書かれた石
高倉健さんのお父様が奉納してくださったとのこと。
高倉健さんは、一時期こちらの八幡宮のすぐ近くに住んでおられて、この場所で友達と野球をしたり相撲を取ったりしたそうです。
ファンの方にとっては聖地のような場所かもしれませんね!
垣生公園
詳細
【住所】〒809-0001 福岡県中間市垣生字八ツ廣428
アクセス: JR筑豊本線「筑前垣生駅」から徒歩で約5分
垣生公園MAP(JPG:16,731KB)(中間市 建設産業部 建設課 作成)
中間市の名所といえば、市内最大の都市公園である「垣生公園」がまず上げられます。自然が多く残り四季折々の植物が生い茂っています。池に架かる赤橋を渡ると、埴生)神社の境内に通じています。また、県指定文化財の「垣生羅漢百穴」もここにあります。これは、古墳時代の横穴群集墓です。
<耳より情報〉中間市にある唯一の古墳を残しているのが、この垣生公園です。
さくらまつり
市内最大の都市公園であり、市民の憩いの場となっている。また、ツツジ、ショウブの他、1,000本の桜の名所として知られており、3月末頃には中間市の三大祭りの一つ「筑前中間さくら祭」も開かれ、花見客でにぎわいます。
毎年行われる「さくら祭り」に合わせて、当法人が手掛ける「さくらイルミネーション」や「フォトコンテスト」などが大いに盛り上がっております。
遊具リニューアル
2022年11月には、垣生公園の遊具がリニューアルされました。
中間市の公式キャラクターの「なかっぱ」に子どもたちの遊びたい気持ちを掻き立てる「ロボット」を組み合わせたインパクト抜群の「なかっぱロボ」を遊具のメインモチーフとし、世界遺産「遠賀川水源地ポンプ室」をモチーフとした九州最大級となるジャングルジムや同じく九州最大級となる高さ4mのフリーフォールスライダーなどを取り入れた大型複合遊具となっております。他にも、乳児用遊具エリアや幼児用遊具も新たに設置されました。
幅広い年齢層が遊べる広場となっております。
世界遺産「遠賀川水源地ポンプ室」
詳細
【住所】福岡県中間市土手ノ内1-3-1(県道73号歩道沿い)
遠賀川水源地ポンプ室について紹介するパンフレットです。(中間市制作)
遠賀川水源地ポンプ室パンフレット1(PDF:5,049KB)
遠賀川水源地ポンプ室パンフレット2(PDF:4.51MB)
世界遺産「遠賀川水源地ポンプ室」は遠賀川の河口から約11キロにある九州製鉄所八幡地区の送水施設。官営八幡製鐵所第一期拡張計画に伴う工業用水不足を補うため1910年より中間市で操業を開始。明治建築の典型的なレンガ建造物で、建物内部の送水ポンプの動力は蒸気から電気に変わりましたが現在も稼働し続けています。2015年に『明治日本の産業革命遺産』の構成資産のひとつとして世界遺産に登録されました。
成り立ち
遠賀川水源地ポンプ室は、官営八幡製鐵所の鋼材生産量の倍増を目指す第一期拡張計画に伴い、製鉄のための工業用水が大量に必要となったことから、新たに遠賀川から製鐵所へ送るための施設として建設され、1910(明治43)年に操業開始しました。
建物の特徴
遠賀川水源地ポンプ室は、遠賀川のほとりに建つ街のシンボルとして、長年親しまれてきました。
ポンプ室の建屋はイギリス積みの赤煉瓦造で、デザインのアクセントとして灰白色の鉱滓煉瓦が使用されています。丸窓や連続した半円アーチ窓が印象的な建造物です。
当初、ポンプ室の北側の棟には送水のための蒸気ポンプ、南側の棟には動力源となるボイラーが設置されました。ポンプ室はこれらの機械を覆う上屋として建設されたため、非常に大きな建造物となっています。
現在
ポンプ室の内部にある送水設備の動力は、1950年代に蒸気から電気へ移り変わりました。100年以上経った現在もなお、役割は変わることなく、鉄づくりのための水を送り続けています。
(上記文面は、中間市役所ホームページの説明文を引用しております。)
唐戸水門
詳細
【住所】〒809-0034 福岡県中間市中間2丁目5−1
写真の建築物が堀川の「中間唐戸」。唐戸とは水門のことで、昭和58年3月19日、福岡文化財に指定された。
遠賀川が増水すると、堀川下流域を水害から守るために、唐戸は閉鎖されるようになっている。そのとき、遠賀川の水勢に耐えることができるように、唐戸は岩盤の地を選んで構築されている。堰戸(せきと)も天井石の下は表戸と裏戸の二重構造になっており、天井石の上は溢水を防ぐための中戸で、独特の構造である。上家(うわや)は堰板等の格納所になっている。唐戸」には水門という意味があり、細長い板を水門の溝に入れ、その枚数によって水量を調節するユニークなものです。県指定文化財です。
中間市の天然記念物「唐戸の大樟」
詳細
【住所】〒809-0034 福岡県中間市中間2丁目3
唐戸公民館のそばにある2本のクスノキが市文化財(天然記念物)の指定を受けました。2本はともに高さ22メートル、胴回りはそれぞれ3.3メートルと4.8メートルです。樹齢は約250年~300年。堀川の開削や中間唐戸の完成よりも古いものです。
〈耳より情報〉
・市の天然記念物として登録されたこの2本のクスですが、登録された時のクスの木の漢字は「楠(くす)」ではなく「樟(くす)」と登録されているそうです。
・くすの木から取れる樟脳の効果は、防虫剤として有名ですね!!
堀川
詳細
遠賀川と洞海湾とを結ぶ全長12kmの堀川は、宝暦12年(1762年)に開通した運河で、治水やかんがい、水運などに大きく貢献してきました。その堀川開通時につくられたのが中間唐戸です。唐戸というのは水門のことで、遠賀川からの導水と水流調節の役目を果たします。昭和58年(1968年)に福岡県の文化財に指定されたこの中間唐戸のほかにも、切貫き跡など多くの遺跡が堀川沿いでみられます。
歴史
堀川の由来と石炭船
遠賀川の支流堀川は、中間市の唐戸を起点とする水門より岩瀬を通り、八幡区折尾を経て洞海湾に注流する、延長一二・五キロ、川幅平均五・二㍍の灌漑水路である。
元和元(一六一五)年、福岡藩主黒田長政が、毎年の洪水に悩むこの付近の村民のために堀川の開堀を命じたのである。長政は、三回にわたり遠賀川を巡視し、地形を見て、同七年、家老栗山大膳に命じて工事に着手した。その要因は、遠賀川の水を分水して例年の洪水を少なくし、川下一六カ村の田畑の灌漑用に引水するために決行されたものである。
第一期工事は、岩瀬地区の大膳堀と名付けられている付近から始められたが、当時は泥沼の如く水がたまり、この下方を堀進せねば不可能とされていた。が、この地は昔の宮地の跡で、掘っても掘っても一夜のうちに元の如く埋まってしまうのを見た村民は、神の祟りだと恐れて仕事は捗らなかった。
ところが、工事に着手にて三年目に黒田長政が死去したため、堀川の工事は中止された。それから一三◯年を経た宝暦元(一七五一)年の黒田継高のとき、再び工事が再開されて約一二カ年の歳月を要して遂に完成された。第二・三期の工事が完成し、唐戸切貫工事には底井野村の石工一田久作の献策を入れて見事に成功、水門口の上家が完了したのが宝暦一二年である。その翌年には荷船が通り、若松に運航するようになったが、追々と石炭が採掘されるにつれて、五平太と呼ばれた川艜(ヒラタ)船が航行して、筑豊地方の石炭船がすべてこの水門を通るようになり、石炭輸送に大きな貢献を残した。
明治三◯年ごろの唐戸水門
石炭船は艀(ハシケ)、また船底の扁平なところから五平太船と呼ばれ、筑豊から石炭を積んで遠賀川を下り、観音扉を通って堀川水路へ進む。弁財天(現在の厳島神社)下の船だまりに集まった数隻の船が、唐戸水門が開けられると水位に従って流れに乗って下る。江戸末期より大小数千隻が、この唐戸を通って若松港まで往復した。
屋島公園
詳細
【住所】〒809-0036 福岡県中間市長津1丁目27
色々な仕掛けがいっぱいなので、小学校高学年のお子さんでも楽しめると思います。その周りにはブランコやすべり台などの通常の遊具もあったり、ターザンロープなどのアクティブに遊べる遊具もあります。また小さいお子様向けの遊具もあるので、小さなお子様でも楽しめます!
駐車場⇒川沿いの大きな道路からではなく、裏側の細い道からしか駐車場へは入れません。とても狭いので運転に自信のない方は河川駐車場に車を停めて歩いていくことをお勧めします。
屋根のない博物館(もやい通り)
詳細
【住所】〒809-0030 福岡県中間市中央二丁目
「中間市に新しい観光名所を」と平成元年につくられた緑道公園です。旧国鉄香月線の跡地を利用しています。モアイ像やスフィンクスなどを配した緑豊かな空間は、見る人に古代遺跡を訪れているような感覚を与えてくれます。幅7m、全長約400mの細長い敷地は「やすらぎの空間の創出」「古代への回帰」など4つのブロックに分かれ、イースター島のモアイ像など世界の石像のレプリカ30体が点在する